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177の国と地域で、聴けるようになりました|強火 -TSUYOBI- 全9曲・三兄弟が出そろうまで

強火 -TSUYOBI- 全9曲のジャケット
目次

177の国と地域で、聴けるようになりました

2026年8月28日、9曲目のシングル「親父でも焼肉はハラミとカルビ好き」を配信しました。同じ日に、8曲目の「寿司は日本のこころです」も出しています。

これで、強火 -TSUYOBI- 名義の曲は9曲になりました。最初の2曲を出したのが7月31日ですから、ちょうど4週間です。

そして、この9曲は177の国と地域で配信されています。

数字だけでは、あまりぴんと来ないかもしれません。私もそうでした。ですので、配信先の国の名前を、ひとつずつ確かめてみました。

エスワティニ。ブルキナファソ。カーボベルデ。どれも、私がすぐには場所を言えなかった国です。アフリカの南に、西に、大西洋の島に、それぞれあります。そこの音楽アプリで「TSUYOBI」と打てば、この9曲が出てきます。日本語のわからない方の画面にも、同じように出てきます。

反対側も見ました。地球儀で日本の真裏にあたるのは、南米の大西洋側です。ウルグアイ、ブラジル。そのあたりの棚にも、私の曲は並んでいました。日本の裏側にいる誰かが、今夜、コロッケの歌を鳴らすことができる。そういう状態になっています。

念のために書いておきますが、驚いているのはこちら側です。私はこれらの国のことをほとんど知りませんし、行ったこともありません。それでも棚には、東京と同じものが置かれている。押せば鳴ります。それだけのことです。

それだけのことなのですが、私にとっては、これがずっと無理だと思っていたことでした。

30年ぶんの曲が、MDに入ったままでした

私が最初に曲を作ったのは、学生のころです。パソコンを一台買って、机の上に音源の機材をつないで、来る日も来る日も打ち込んでいました。数えたら300曲くらいありました。いまもMDに録音したまま、手元に置いてあります。

ほとんど誰にも聴かせないまま、30年近くが経ちました。

聴かせなかったのは、恥ずかしかったからではありません。方法が無かったからです。当時、自分で作った曲を人に届けようとしたら、まずレコード会社に見つけてもらう必要がありました。見つけてもらえなければ、机の上で鳴って、そこで終わりです。私の300曲は、その「そこで終わり」のほうに入りました。それが当たり前だと思っていましたし、いまでもそれを不幸だとは思っていません。作っているあいだは楽しかったからです。

ただ、頭の片方には、ずっと引っかかったものが残りました。あれは誰にも聴かれていない、という事実です。良かったか悪かったかを、誰も判定していない。判定されないまま30年が経っている。

2026年7月31日に、その状態が終わりました。

きっかけは、自社のアプリに載せる曲が無かったことでした

配信を始めたのは、音楽で身を立てようと思ったからではありません。きっかけは、まったく別のところにありました。

当社は「楽ダイ」というスマートフォンのアプリを作っています。歩く時間を楽しくしたくて、音楽を聴きながら歩いていただく設計にしました。

ところが、載せる音楽がありません。世の中の曲には、すべて権利者がいます。他人の曲をアプリに入れて配ることは、著作権の問題があってできません。使わせていただく道が無いわけではありませんが、使う方に自由に聴いていただける形にするのは、簡単ではありませんでした。

そこで、自分で作った曲を載せました。自分の曲なら、権利は自分にあります。誰に断ることもなく、アプリの中で自由に鳴らせます。

机の中に30年入っていたものが、はじめて使い道を持ったのがここでした。そして、アプリのために曲を作りはじめたら、今度はアプリの外でも聴けるようにしたくなりました。配信は、その順番で始まっています。

ですので、この9曲は「配信するために作った曲」ではありません。載せる曲が無かったから作った曲です。

「置かれた」というところまでを書きます

正直に書いておきたいことがあります。この記事には、再生された回数も、順位も出てきません。ストアからの報告が届くまでには数か月かかるので、今日の時点で私が事実として書けるのは、9曲が世界の棚に置かれたというところまでです。

誰かが手に取ったかどうかは、まだ別の話です。ですから、そこは書きません。

それでも、置かれたこと自体が、私にとっては全部でした。30年前に無かったのは、才能でも運でもなく、棚だったからです。棚さえあれば、あとは作って並べるだけです。並べたものが聴かれるかどうかは、そのあとに来る、まったく別の勝負になります。

この記事は、その9枚を1枚ずつ棚から下ろして、何を考えて作ったかを書いたものです。長いです。目次から気になる曲へ飛んでいただいてかまいません。

強火 -TSUYOBI- は、食べ物だけを歌います

ご存じない方のために、先にこのユニットの説明をします。

TSUYOBI(ツヨビ)は、三人組のユニットです。そして、食べ物のことしか歌いません。恋も、別れも、夢も歌いません。9曲すべてが、回鍋肉・コロッケ・冷やし中華・炒飯・秋刀魚・餃子・カツオのたたき・寿司・焼肉の歌です。それ以外のことを歌った曲は、いまのところ1曲もありません。

縛りとしては、かなりきついほうだと思います。ただ、この縛りを外す気はありません。食べ物の歌をずっと作っていて気づいたのは、食べ物の話は、たいてい途中から人の話になるということでした。人の話をしようとして人の話をすると、説教になります。皿の上のものを見ながら喋っていると、そうなりません。

名前は、1曲目のサビの中にありました

「強火」という名前は、キャラクターの名前として考えたものではありません。1曲目「新・中華狂騒曲 feat. 回鍋肉」のサビに、もともとこう入っていました。

強火の風が 吹き抜ける
思考を止めて 混ざり合え

名前を先に決めて曲を書いたのではなく、曲の中にあった言葉を、そのまま名義に持ってきました。1曲目にして、名前がすでに歌詞の中にあります。

名義にした時点では、まだ一人でした。そのあとに中火(ちゅうび)と弱火(よわび)が出てきて、いまは三人います。名前はそのまま、ユニットの名前になりました。ジャケットや配信ストアには「強火 -TSUYOBI-」と入っていますが、中身は三人組だとお考えください。長男の名前が、そのまま看板になっているかたちです。

強火の仕事は、人に考えさせないことです。弱火なら待つ時間があって、待つ時間には考える余地があります。強火にそれはありません。火を上げた瞬間から鍋の中は待ってくれず、振るか、焦がすかしかない。判断ではなく反射だけが残ります。台所でいちばん頭が空になるのは、たぶんあの数十秒です。

料理人ではありません

絵のほうにも、ひとつだけ決めていることがあります。料理人の記号を一切持たせないことです。コック帽をかぶりません。白衣も着ません。エプロンもしませんし、包丁も持ちません。

厨房の人の歌ではないからです。作る側にいる曲もありますが、それは「今夜の自分の台所」の話であって、職業の話ではありません。包丁を持たせた瞬間に料理漫画の絵になってしまうので、そこは最初から外しました。

新しい曲は、金曜日に出します

もうひとつ、自分に課しているルールがあります。新曲は必ず金曜日に出すことです。

7月31日、8月7日、8月14日、8月21日、8月28日。9曲すべて金曜日に出ています。理由は単純で、そう決めておかないと出さないからです。曲というのは、いつまでも直せます。もう一度聴き直せば必ず気になる場所が出てきますし、直せばまた気になります。締切がなければ、たぶん一生手元に置いておくことになる。30年ぶん、実際にそうしてきました。

ですので、次の金曜日という外側の線を先に引きました。曜日を決めただけの、ただの手続きです。それでも、この手続きが無ければ9曲は出ていません。

作詞・作曲は長屋大輔、私です。制作にはAIを使っており、そのことは配信元にも開示しています。レーベルは当社、デリシャスノーツです。

TSUYOBIというユニットが出来上がりました。

もうひとつ、8月28日で区切りがついたことがあります。

TSUYOBIは、一人の名前ではなく、このユニットの名前です。火加減の名前を分け合った三兄弟がいて、長男が強火、次男が中火、末っ子が弱火。三人で一つのユニットです。

8月28日の「寿司は日本のこころです」で末っ子が名乗り、同じ日の「親父でも焼肉はハラミとカルビ好き」で、三人が初めて一枚の絵に揃いました。7月31日に長男ひとりで始まったものが、4週間で三人になったことになります。

強火・中火・弱火の三兄弟

強火 TSUYOBI ── 20代・兄・歌

差し色は熾火オレンジ。黒い髪の毛先だけがその色です。首にヘッドフォンを掛けています。手のガントレットは、拳の関節のところが局所的にオレンジに光ります。

歌います。しかも、一撃で持っていくタイプです。サビで声を張って、そこで終わらせる。1曲目から6曲目までのうち5曲は、この兄が歌っています。

頬に煤(すす)がついていて、笑うと片方の牙が見えます。焼き場に立つと、まずトングを離しません。それがこのユニットでは普通のこととして通っています。

中火 CHUBI ── 19歳・次男・ラップ

差し色は琥珀ゴールド。髪は後ろで短く結んでいて、結んだ先と前髪の先だけが琥珀色です。指の関節が、拍に合わせて明滅します。炎そのものは見えません。拍だけが光ります。

耳には有線のイヤモニを着けていて、細いケーブルが襟から垂れています。兄はヘッドフォンで、弟はイヤモニです。これは音の趣味の違いではありません。まだ兄からヘッドフォンを譲られていないからです。

歌わずに、韻を踏みます。兄が声量で押すのに対して、この弟は言葉数で押してきます。そして熱くなりません。バトルの最中でも半笑いでいるような男です。大事なことを大事そうに言わないのが、この男のやり方です。

初登場は2026年8月14日の「秋刀魚(さんま)はあきのかたなのさかなと書くんです」でした。同じ日に出した「炒飯ラプソディー」のジャケットにも、背景の暗がりに小さく立っています。8月21日の「カツオのたたきを叩き切る」で、二曲続けて真ん中に立ちました。

弱火 YOWABI ── 13歳・末っ子・低音とハミングと余白

差し色は深い青。髪は横分けの短髪で、毛先だけが青くなっています。耳に着けているのは骨伝導のヘッドセットです。耳をふさぎません。

掌の上に、青い炎をひとつ載せています。この炎は、大きさが変わりません。兄二人の火は場面によって上がったり落ちたりしますが、この子の火だけは、ずっと同じ大きさで載っています。

色が違うのは、絵の都合ではありません。ガスの弱火は、実際に青いからです。台所のつまみを一番細くしたときに出るあの色を、そのまま末っ子に渡しました。

そして、これがこのユニットのいちばん大事な設定です。火加減がいちばん難しいのは、弱火です。 強火は勢いでどうにかなります。中火も、慣れればだいたい合います。弱火だけは、消えるか強くなるかの境目をずっと見ていないと保てません。兄弟で唯一、火を完全に制御できるのがこの末っ子です。そして、制御できる者だけが「火を引く」という判断ができます。

13歳で、兄弟でいちばん小さく、いちばん幼いのに、目だけが据わっています。笑いません。兄二人が暴走したときに止められるのはこの子だけで、上の二人はこの末っ子に頭が上がりません。

三人に共通していること

  • 全員、黒が基調です。差し色は各自1色だけで、混ぜません
  • 色が乗っているのは毛先だけです。髪全体は黒のままです
  • 髪は下に落ちます。逆立ちません
  • 三人とも料理人の記号を持ちません(コック帽・白衣・エプロン・包丁なし)

並べたときに、末っ子だけ色が冷たい。それが、このユニットの見せ方です。

9曲を、1曲ずつご紹介させてください。

ここからは9曲を配信順に並べます。それぞれの曲について、何を考えて書いたのかと、聴きどころを1か所ずつ書きました。曲名から、配信先をまとめたページに飛べます。

01|新・中華狂騒曲 feat. 回鍋肉(2026年7月31日/歌=強火/2分40秒)

新・中華狂騒曲 feat. 回鍋肉 ジャケット

1曲目です。深夜二時の台所で、中華鍋をあおる歌です。

まずタイトルの話をさせてください。「狂騒曲」を音楽用語だと思われることがありますが、違います。音楽の言葉としてあるのは「狂詩曲」のほうで、こちらがいわゆるラプソディです。「狂騒曲」は辞書に載っている普通の日本語で、意味は「狂ったような騒ぎ」。曲という字が入っているだけで、音楽とは関係がありません。読み方は「しん・ちゅうかきょうそうきょく」です。

音楽用語ではないほうを、あえて選びました。この曲で起きているのは音楽ではなく、騒ぎだからです。キャベツが引き裂かれ、豚バラが跳ね、甜麺醤が落ちる。あれは演奏ではありません。一人の人間が、フライパンの前で勝手に起こしている騒ぎです。

曲名のうしろに「feat. 回鍋肉」と付けたのも、半分は冗談ですが、半分は本気です。この曲の回鍋肉は、料理される側にいません。

深夜二時、蛍光灯のノイズ
換気扇が静かに回りだす
僕は一人、まな板の前で
キャベツの葉を不揃いに引き裂く

「不揃いに引き裂く」と書いたのは、包丁を使っていないからです。深夜二時に丁寧な仕事をする人はいません。手でちぎって、そのまま放り込む。この一行で、これがどういう夜なのかはだいたい伝わると思っています。

そして、主人公は「ただ、手を動かしている」だけで、音を出しているのは全部、食材のほうです。キャベツは踊り、肉は跳ね、甜麺醤の黒い滴が夜の密度を変えていく。歌っているのは強火ですが、鳴らしているのは回鍋肉です。だから共演者の欄に名前を書きました。

聴きどころは、二番のこの二行です。

誰もがきっと 探している
この孤独を 満たすための比率

レシピというのは、要するに比率のことです。何をどれだけ入れるか。そして、その通りに作っても、自分にちょうど効く味にならないことがあります。人によって、その日によって、正解の比率が違うからです。

これは料理の話に見えて、料理の話ではありません。働く時間と休む時間の比率、人と会う日と会わない日の比率、踏ん張る量と手を抜く量の比率。誰もが、自分に効く配合を探しながら暮らしています。そしてその配合は、たいてい人には教えられません。同じものを同じだけ入れても、その人には効かないからです。

「孤独を満たす」と書きましたが、消す、とは書きませんでした。孤独は消えません。ただ、比率が合っているときは、ちゃんと満たされます。

終わり方は、こうです。煙が消えて、中華鍋の熱だけが残ります。人はもういません。

02|夜はコロッケ(2026年7月31日/歌=強火/3分1秒)

夜はコロッケ ジャケット

1曲目と同じ日に出した、2枚目です。

9曲並べてみると、この曲だけが明らかに違うことをしています。主人公が、作らないのです。 買って、提げて、帰ります。

コロッケは、家で作ろうとすると本当に手間のかかる料理です。ジャガイモをゆでて潰し、ひき肉を炒めて混ぜ、いったん冷まして、形を整えて、粉と卵とパン粉をつけて、それから油。工程だけ数えれば9曲のなかでいちばん重い。それなのに、店先では揚がった状態で、紙に包まれて待っています。作らずに手に入る熱。これがこの曲だけの立ち位置です。

そして、自分で作らないということは、誰かがすでに作ってくれているということでもあります。歌詞に一度も出てきませんが、この曲にはかならず揚げた人がいます。姿は見えないし、名前も呼ばれない。それでも確実にいる。ほかの8曲には無かったものです。

夕暮れ時の一歩手前で
並んで買った 楕円の塊

曲名に「コロッケ」と入っているのに、この段ではまだ一度も「コロッケ」と呼んでいません。「楕円の塊」とだけ書いています。買った瞬間、それはまだ食べ物として認識されていないと思ったからです。渡されるのは、温かくて、少し重くて、紙の向こうで角の丸い何か。名前より先に、形と重さのほうが手に届いている。名前を呼ぶのはサビになってからです。

もうひとつ、「並んで買った」の四文字が、この曲でいちばん人間くさいところだと思っています。帰り道です。疲れています。早く帰りたい。それなのに列の最後尾につく。数分待つ。誰にも強制されていないし、買わなくても一日は終わる。それでも並ぶ。列に並んだ時点で、もう「今日はこれを食べる」と決めてしまっているのです。

聴きどころは、この二行です。

ただそれだけのことなのに
なぜか少しだけ 救われている

起きていることは、本当に大したことではありません。仕事帰りに店に寄って、揚げ物をひとつ買った。それだけです。誰かに話すほどのことでもない。

それでも、少しだけ救われている。「すごく」ではなく「少しだけ」。ここは間違えたくありませんでした。手のなかが温かいくらいで人生が変わるわけがありません。変わらないまま、その日の帰り道だけがほんの少しましになる。書いている途中、何度かもっと大きい言葉に置き換えたくなりましたが、大きくした瞬間に嘘になると思ってやめました。

この曲は、味の話をほとんどしていません。ずっと温度の話をしています。何がおいしかったかではなく、どれくらい温かかったか。あとから思い出すのは、たぶんそちらのほうです。

そして最後、言葉が意味を手放します。残るのは「ラララ」と「夜の衣」だけです。9曲のうち、こういう終わり方をしたのはこの1曲だけになりました。

03|冷やし中華レイヤー(2026年8月7日/歌=強火/2分54秒)

冷やし中華レイヤー ジャケット

強火という名前で、冷たいものを歌いました。

ひねりを効かせたかったわけではありません。夏の台所で、火を使わずに作れるものを一皿だけ選ぶとしたら、たぶんこれだろうと思ったからです。湯を沸かして麺をゆで、すぐ流水で冷やす。切って、並べて、タレをかける。それだけの料理なのに、作っているあいだ、やたらと静かになる。その静けさを録りたいと思いました。

タイトルの「レイヤー」は、層のことです。冷やし中華は層でできています。下に麺があって、その上にキュウリ、錦糸たまご、ハム、紅ショウガが、それぞれの区画を守って並んでいる。タレは器の底に溜まっていて、最初は麺にすら届いていない。盛りつけた直後のあの皿は、まだ何ひとつ混ざっていない状態です。歌詞に「黄色い境界線」という言葉を置いたのは、そこがまだ壊れていないからです。

そして食べはじめた瞬間から、この層は崩れていきます。おもしろいのは、崩し方に人それぞれの流儀があることです。最初に全部かき混ぜてしまう人。端から一区画ずつ食べ進めて、最後に紅ショウガだけ残す人。ひとつの皿にこれだけの個人差が出る料理も、そう多くはないと思います。曲もその構造にしました。前半は具材をひとつずつ名前で呼び、サビで全部を混ぜます。

街で見かけた 貼り紙ひとつ
「始めました」の 揺れる文字

冷やし中華は、日本でおそらく唯一、「始めました」と宣言される料理です。誰に頼まれたわけでもないのに、店先に紙が貼られる。あの紙が貼られた日から、その街の夏が始まります。

けれど、終わりを告げる紙は貼られません。「終わりました」という貼り紙を、私は見たことがない。ある日ふと店の前を通ったら、もう無い。いつ剥がされたのかは誰も知らないし、誰も知らせてくれない。この非対称が、この曲の切なさの正体だと思っています。始まりだけが告げられて、終わりは黙って過ぎていく。夏そのものと同じ形をしています。

聴きどころは、ここです。

冷やす、冷やす、流水のなかで
麺が 引き締まっていく

麺を流水で締める工程は、麺を冷たくするためだけの作業ではありません。ゆるんだものを引き締めて、輪郭をはっきりさせるための作業です。冷やすと、麺は強くなります。

人も、たぶん同じところがあります。一人でいる時間は、寂しいだけの時間ではない。ぼんやりしていたものの輪郭が、静かに戻ってくる時間でもある。歌詞では「孤独のなかで 研ぎ澄まされていく」という一行にしました。この曲でいちばん書きたかった一行です。

強火という名前で冷たいものを歌う意味があるとすれば、たぶんここです。火だけが人を強くするわけではない。

04|炒飯ラプソディー(2026年8月14日/歌=強火/4分04秒)

炒飯ラプソディー ジャケット

9曲のなかでいちばん長い曲です。そして、いちばん機嫌がいい曲でもあります。

冷蔵庫の奥に眠ってた 昨日の冷やご飯

この一行から始めました。炒飯という料理のいちばん妙なところは、主役が「昨日の残り」だという点だと思っています。炊きたてで作った炒飯はたいてい重い。水分が多すぎて、鍋の中でひとつの塊になろうとする。ひと晩置いて、少し乾いて、粒どうしがほどけたご飯。冷蔵庫の中でいちばん存在感のない容器。あれが最良の材料です。

ほかの料理でこれはあまり起きません。刺身は昨日のものを出さないし、天ぷらも揚げたてが正しい。炒飯だけが、時間の経過を歓迎します。

炒飯の話になると、必ず火力の話になります。この曲では「だから家庭では無理だ」という方向には行きませんでした。火力が命だというのは、熱量の絶対値の話であると同時に、迷っている時間がないという話でもあるからです。鍋に材料を入れてから皿に盛るまで、炒飯はせいぜい二、三分。味見をして考え直す余裕がありません。決めて、動かす。そのくり返しだけでできている料理です。

それから、この曲では「パラパラか? しっとりか? どっちも愛なんだ!」と歌わせて、決着をつけませんでした。というより、決着をつけない曲にしたかった。食べ物の歌をずっと作っていて思うのは、料理の正解を決めた瞬間に、その料理はつまらなくなるということです。人の数だけ台所があって、それぞれのやり方でみんな満足している。その状態そのものが、いちばん豊かだと思っています。

聴きどころは、この二行です。

失敗したっていいさ 塩コショウでリサイズ
人生だってきっと そんな調味料次第

炒飯は、途中で味が決まらなくても、あとから足せます。薄ければ塩を振ればいい。物足りなければ醤油を鍋肌に垂らせばいい。焦げついたら、その焦げごと香りにしてしまう手もある。取り返しがつく料理です。

そういう料理をひとつ知っていることは、思っているより人を助けるのではないかと考えています。作り直しの効かないものばかりに囲まれていると、人はだんだん手を動かさなくなる。まずいと思ったら足せばいい、という料理が冷蔵庫の残りものでできる。それは、けっこう大きなことです。

タイトルの「ラプソディー」は、日本語では狂詩曲と訳されます。決まった形式を持たず、思いつくままに進んでいく音楽です。炒飯の作り方が、まさにそれだと思いました。何を入れるかは冷蔵庫次第で、順番も家によって違う。それでも最後には、ちゃんと炒飯になる。1曲目の「狂騒曲」とは字面が似ていますが、指しているものは別のものです。

最後は「ごちそうさまのその先へ」で終わります。食べ終わったところで曲を終わらせたくなかったからです。特別な日の料理ではありません。何度でも来る日のための曲です。

なお、このジャケットの背景の暗がりに、もう一人立っています。次の曲の主役です。

05|秋刀魚(さんま)はあきのかたなのさかなと書くんです(2026年8月14日/歌=中火/2分28秒)

秋刀魚(さんま)はあきのかたなのさかなと書くんです ジャケット

この曲でマイクを握っているのは、強火ではありません。弟の中火(ちゅうび)です。2026年8月14日、この曲が中火の初登場であり、初主演でした。

ジャケットにも出ています。手前で焼き網を見下ろしているのが中火で、煙の向こう、少し奥に立っているのが強火です。今回は兄のほうが引いています。

秋刀魚の曲を弟に渡したのは、この歌が「一人で飲みながら喋っている」曲だからでした。カウンターの端で、隣の誰にともなく漢字の話をしている。あの温度は、兄の声では出ません。火加減が違うのです。だから今回は、サビで叫ぶかわりに、韻を踏みながら喋るように歌っています。

タイトルが長いという自覚はあります。「秋刀魚」だけにする、「刀の魚」にする、いっそカタカナで「サンマ」と置く。短くする案はいくつも出ましたが、どれもこの曲が言いたいことを言えていないと思ってやめました。

この曲は、秋刀魚という魚がうまいという歌ではありません。秋刀魚という字がすごい、という歌です。 だとしたら、その驚きを丸ごとタイトルに置くべきだと思いました。「〜と書くんです」という、人にちょっと教えたくなるときの言い方まで含めて、そのまま名前にしています。

秋に 刀(かたな)の 魚と書いて
読み方は「サンマ」 粋な名前さ

あの魚は、たしかに刀の形をしています。細くて、まっすぐで、腹から尾にかけて銀色がひと筋通っている。焼き網に乗せると、その銀がいっそう光る。旬が秋であるという事実を頭につけただけで、姿かたちも季節も味の記憶も、三文字で全部言い切ってしまっている。日本語にはこういう字がときどきあって、見つけるたびに得をした気分になります。この曲は、その得をした気分を人に渡したくて書きました。

聴きどころは、この一行です。

内臓(わた)の苦味が 大人にはわかる

秋刀魚は、内臓を取らずに焼いて、そのまま食べられる数少ない魚です。あの苦さを最初からおいしいと思う子どもは、たぶんあまりいません。私も長いあいだ避けていました。

それが、いつのまにか、あの苦さのほうを先に探すようになります。身のところより、腹のあたりに箸が伸びる。何かの節目があったわけでもなく、気づいたら変わっている。

年を重ねるのは失うことばかりのように語られがちですが、こういう増えかたもあります。 前は食べられなかったものが食べられるようになる。世界のうまいものが一つ増える。この曲でいちばん書きたかったのは、たぶんこの行です。

それから、この曲では秋刀魚を料理ではなく出演者として書きました。七輪に乗ってから皿に届くまで、あの魚はよく働きます。脂がはぜて音を立て、煙を上げて匂いで知らせ、皮が焦げて色が変わる。こちらは何もせず、ただ見ている。それを見ている時間まで含めて秋刀魚だと思ったので、「今夜の主役は 刀の姿した名優」と、舞台の言葉を選びました。

最後は、サビの言葉が途中でほどけて、店員さんへの一言で終わります。「もう一杯、ビールください」。感動的な結論を置いてしまうと、この曲が「秋刀魚について考えた歌」になってしまいます。そうではなく、飲みながら思いついたことを喋っていたら、そのまま次の一杯を頼んでいた。その温度で終わらせたかった。

06|餃子しか勝たん(2026年8月21日/歌=強火/3分31秒)

餃子しか勝たん ジャケット

兄が戻ってきます。自分の台所で、包む歌です。

先に曲名の話をさせてください。「しか勝たん」は、ここ数年で広まった言い方です。ある対象がとにかく好きで、他と比べる気すら起きないときに使われます。若い人の言葉として紹介されることが多いので、曲名に据えるのは少し迷いました。

迷ったのは、言葉が古びるからです。流行りの言い方を曲名にすると、その言い方が使われなくなった瞬間に、曲のほうまで古く見えます。それでも、これにしました。この言葉ほど、餃子を食べているときの頭の中に近いものがなかったからです。焼き上がった皿を前にすると、他の料理のことを考えなくなります。比較の対象が消える。優劣をつけているのではなく、そもそも比べる気がなくなっている。この感じを、既存の言い方で書けませんでした。

小さな白い皮のキャンバスに
夢と情熱を ギュッと包み込んでいく

この曲は、餃子を食べる歌ではなく、作る歌として始まります。餃子はあの工程がいちばん長いからです。キャベツを刻んでニラを刻んで、ひき肉と混ぜて、少し置いて。それから皮を一枚ずつ広げて、餡を乗せて、閉じる。三十個作れば三十回、同じ動作を繰り返します。手を動かしているあいだ、他のことは考えられません。

皮を「キャンバス」と書いたのは、あの一枚が本当に白くて平らで、何も乗っていないからです。乗せるものは自分で決められる。今日の餃子の中身は、今日の自分が決めたものです。

サビに出てくる「羽」は、羽根つき餃子のあれです。水溶き粉を回し入れて蒸し焼きにすると、餃子と餃子のあいだに薄い膜が張って、焼けるとパリパリになります。この工程には、料理として必要な理由がほとんどありません。羽がなくても餃子は焼けます。ただ、あれがあると皿の上での見え方が完全に変わる。ばらばらだった十個が、ひとつの丸い塊になって出てくる。運んでいるものがあるとすれば、それは餃子ではなくて、これから始まる数十分のほうだと思います。

聴きどころは、この二行です。

失敗続きの冴えない日常も
ひっくり返せば 見事なきつね色

フライパンの中の餃子は、焼いているあいだ、うまくいっているかどうかがわかりません。底は見えない。音と匂いから推し量るだけです。焦げているかもしれないと思いながら、蓋を開けて、皿をかぶせて、返す。返して初めて結果が見えます。

ここで書きたかったのは、努力すれば報われるという話ではありません。まだ返していないだけかもしれない、という程度のことです。それ以上のことは言えないので、それ以上は書きませんでした。

この曲にはもう一か所、声を落としているところがあります。「一人で抱え込んだ 悲しい夜だって/温かい湯気が 包み込んでくれるから」。餃子は大勢で囲むものとして語られがちですが、一人で焼いて一人で食べる夜のほうが、私の場合は多い。そういう夜に効くのは、味よりも湯気だという気がしています。蓋を開けたときに顔に当たる、あの熱くて白いやつです。何かを解決してくれるわけではありません。ただ、そのあいだだけ視界が白くなって、少し何も考えなくなる。

「救われた」とまでは書きませんでした。「包み込んでくれる」で止めています。餃子にできるのはそこまでで、そこまでは確実にやってくれます。

途中に出てくる「やっぱり君が 一番なんだ」の「君」は、餃子のことです。人ではありません。人にしなかったのは、この曲にそれ以上の物語を持ち込みたくなかったからです。

07|カツオのたたきを叩き切る(2026年8月21日/歌=中火/2分39秒)

カツオのたたきを叩き切る ジャケット

「餃子しか勝たん」と同じ日に出しました。こちらは中火が歌います。二曲続けての主役です。出てきて一週間で二曲というのは、このユニットでは初めてのことでした。

同じ日に出した二曲は、行き先が正反対になりました。餃子は自分の台所で包む歌で、こちらは食べるためだけに移動する歌です。

タイトルが物騒だという自覚はあります。カツオのたたきは、そもそも切るところまでが料理です。だから「叩き切る」と書くと、包丁の話に読めます。実際にはそうではありません。この曲で叩き切っているのは、行くか行かないかの迷いのほうです。

カツオが食べたい。
カツオを食べるためだけに高知にいくぜ

曲はこの二行から始まります。理由がこれしかない。仕事のついででもなく、旅行の一環でもなく、これを食べるためだけに移動する。その決め方のことを「叩き切る」と言っています。ジャケットで中火に包丁を持たせなかったのは、そのためです。この男は料理人ではありません。食べに行く側の人間です。

この曲を中火に渡した理由は、わら焼きにあります。わらは一瞬で燃え上がって、一瞬で落ちます。炎が背丈を超えて立ち上がり、数十秒でおさまる。その短いあいだに表面だけを一気に炙って、中は生のまま残す。長く火を当てないことが目的の焼き方です。強い火を、短く、必要なところにだけ当てる。火加減の話をしている歌に、火加減の名前を持つ男を立たせたかった。

「ポン酢もいいけど 今夜は塩で」という行があります。たたきをどう食べるかは、たいてい二択になります。たれは薬味と一緒に押し寄せてくる味で、これはこれで完成しています。塩は何も足しません。焼いた表面の香ばしさと、身そのものの味だけが残る。わざわざそこまで来たのだから、余計なものを乗せたくないという理屈です。どちらが正しいという話ではないので、一度ポン酢を肯定してから塩に行きました。今夜はこっち、というだけのことです。

それから、この曲には「かつお かつお かつお」と三回続けて名前を呼ぶところがあります。意味を運ぶ行ではなく、拍を刻むための行です。カ・ツ・オ。三音で、頭に強い子音が立つ。並べると打楽器のように聞こえます。聴いていると、途中から魚の名前がリズムに変わります。

聴きどころは、この二行です。

わざわざ来た理由なら
この一口で 全部わかったんだ

遠くまで食べに行くというのは、冷静に考えると割に合いません。移動に何時間もかけて、費用もかかって、食べているのは数十分です。行く前にはたいてい、そこまでするほどかという声が自分の中にあります。

それが、最初の一口で消えます。理屈が要らなくなる。説明できるようになるのではなく、説明する必要がなくなる。「全部わかった」と書きましたが、何がわかったのかは書いていません。書けなかったからです。あの瞬間に起きているのは理解ではなくて、たぶん納得のほうなので、中身を説明しようとすると嘘になります。

そして、この曲でいちばん静かなのが「僕らの人生も ちょっと苦くて 愛おしい」の一行です。強火なら、ここで力を入れて歌ってしまうと思います。中火は入れません。半笑いのまま、同じ調子で通り過ぎていきます。

最後の一行だけ、声が落ちます。「ねえ、まだ帰りたくないな…」。遠くまで来てよかった、という結論で終わらせると、この曲が旅の感想文になってしまいます。まだ店にいて、まだ終わっていないところで切りました。帰りたくないと言っているのは、たぶんカツオのことではありません。この店にいる時間そのもののことです。

08|寿司は日本のこころです(2026年8月28日/歌=弱火/3分11秒)

寿司は日本のこころです ジャケット

この曲で真ん中に立っているのは、強火でも中火でもありません。三兄弟の末っ子、弱火(よわび)です。今回がはじめての登場になります。

寿司は、火を使いません。炙るものもありますが、基本は生のまま切って、握って、出す。このユニットは火の名前を三人で分け合っているので、火を使わない料理をどう扱うかは、いつか必ず来る問題でした。

答えを、弱火にしました。

火加減がいちばん難しいのは弱火です。強火は勢いでどうにかなり、中火も慣れればだいたい合う。弱火だけは、消えるか強くなるかの境目をずっと見ていないと保てません。火を完全に制御できるのは、この末っ子だけです。そして、制御できる者だけが、火を引くという判断ができます。 火を使わない料理の歌を、この子に渡した理由はそれです。

13歳。兄弟でいちばん小さく、いちばん幼いのに、目だけが据わっています。笑いません。掌の上に青い炎をひとつ載せていて、その炎は大きさが変わりません。兄二人が暴走したときに止められるのはこの子だけですが、今回はその力を一度も使わない曲になりました。使わずに、ただ座っている。それでいいと思っています。

僕は一人、カウンターの隅
下町の寿司屋、下町の寿司屋

一行目は町の名前から始めました。曲の頭でここまで場所を絞ると、その町を知らない人には届かなくなる、という心配は当然あります。それでも置いたのは、この曲が「日本の寿司」という大きな話をするからです。大きいことを言う曲ほど、入口は小さくしたほうがいいと思っています。

二行目の「引き戸」も選んだ言葉です。自動ドアではありません。手で開けて、手で閉める。開けたときの音まで含めて、店の中と外が切り替わります。

そして三行目で、はっきり一人だと言っています。寿司屋のカウンターは、一人で行っても成立する数少ない場所です。むしろ一人のほうが向いている。会話の相手が正面に一人いて、その人はずっと手を動かしている。しゃべってもいいし、黙っていてもいい。間がもたない、ということが起きない店です。座ったのを「隅」にしたのは、この曲の「僕」が、常連ではあっても主賓ではないからです。

「下町の寿司屋」という一行は、曲のなかで何度も返ってきます。二回続けて置いてあるので、聴いていると呪文のように聞こえてくるはずです。意味を足しているわけではありません。ただ、寿司屋のカウンターというのは、そういう時間の流れ方をしている場所だと思っています。同じ手つきが繰り返されて、同じ順番でものが出てきて、それが心地よい。変化ではなく、反復のほうが本体です。

聴きどころは、この二行です。

握る、握る、一瞬の輪郭
あの手さばきに 僕は息を呑む

寿司は、できあがるまでが速い料理です。一貫が数秒で終わります。煮込むわけでも焼くわけでもないので、見せ場が短い。その短さを「輪郭」という言葉で書きました。かたちが決まる瞬間が一度だけあって、決まったらもう触らない。触れば崩れる。あの、手を離すところが好きです。

「握る」を二回続けたのも同じ理由です。一回だと動作の説明になってしまいます。二回置くと、こちらが見ているあいだにもう次が握られている、という速さが出ます。

終わりのほうに「カウンターの底に、サビの緑だけを残して」という一行を置きました。サビは山葵のことですが、字にすると錆にも読めます。どちらの意味でも成立するように、あえて仮名で書きました。食べ終わった皿に、緑がひとかけだけ残っている。あれを見るのが、店を出る前のいちばん静かな時間だと思っています。

曲名は、直球すぎるほど直球です。ひねっていませんし、ですます調で言い切っています。迷いはありました。照れが出るからです。ただ、照れて濁した題をつけると、曲まで濁ります。 言い切るなら、最後まで言い切ったほうがいいと決めました。

ジャケットについても一つだけ。白木の一枚板が伸びた、静かで隙のないカウンターにはしませんでした。使い込んで飴色になった台、ネタケース、壁の木札、裸電球。町の寿司屋です。「日本のこころ」を、高いものの側に置きたくなかったからです。奥に二人、座っています。強火と中火です。弟が真ん中に立つ日なので、兄二人は口を出さずに見ているだけにしました。

09|親父でも焼肉はハラミとカルビ好き(2026年8月28日/歌=三兄弟/3分20秒)

親父でも焼肉はハラミとカルビ好き ジャケット

9曲目です。そして、三兄弟が一枚のジャケットに揃った、はじめての一枚になりました。

これまでは、誰かが主役で、誰かが煙の向こうに小さく写っている、という描き方をしてきました。今回は三人とも同じ大きさで、同じ網を囲んでいます。左から中火、真ん中が強火、右が弱火。年の順に並んでいます。トングを握っているのは強火です。火番を兄が譲らないのは、このユニットではふつうのことなので、そのまま描きました。

三人の表情が全部違うところを見ていただけると嬉しいです。強火は歯を見せて笑っています。中火は半笑いで、兄のほうを見ていません。弱火は笑っていません。同じ卓で同じ肉を食べていて、三人とも機嫌はいいのに、顔の出し方が全員違う。兄弟というのはそういうものだと思っています。差し色も三色そのまま並びました。中火の琥珀、強火の橙、弱火の青。並べたときに末っ子だけ色が冷たいのが、このユニットの見せ方です。

タイトルに「親父」と入っているのに、絵のなかに親父はいません。兄弟は上から順に二十代・十九歳・十三歳で、誰も親父ではないからです。これは抜けではなく、そう決めました。この曲の親父は、聴いている人のほうです。 網の向こう側に座っていて、こちらからは見えない。歌っているのは息子たちで、親父の言い分を代わりに言っている、という立て付けにしています。

「親父になっても」という言い方も、そのつもりで書いています。なった、ではなく、なっても。役割が増えただけで、中身は変わっていないという言い分です。子どもができても、部下ができても、髪が薄くなっても、網の前に座れば同じ顔になる。その変わらなさのほうを歌にしました。だから曲の頭も、しんみりした入り方にしていません。ブラスが鳴って、煙の向こうがワンダーランドだと言い切って始まります。反省も後悔もない曲です。

曲の進行は、卓の進行とそろえてあります。タン塩から始めて、塩からタレに移る。歌詞の並びが、そのまま焼肉屋での順番になっています。頭から通して聴くと、一枚目から〆までを一度食べたことになるように書きました。

ラップの部分では、部位の名前をひたすら並べています。数えると十種類あります。並べるだけなら図鑑になってしまうので、それぞれに一語だけ触感をつけました。コリコリ、歯ごたえ、厚切り。部位の名前は知識ですが、触感は記憶のほうです。 知らない部位が出てきても、噛んだ感じだけは想像できるように書いています。

ただし、並べたあとは必ず戻ります。

だけど最後は タレだくカルビ
ハラミの厚切り 噛みしめる幸せ

これがこの曲の全部です。詳しくなればなるほど、結局そこに戻る。タイトルがそのまま結論になっている曲なので、途中でどれだけ寄り道をしても、必ずハラミとカルビに帰ってきます。

一か所だけ、速度が落ちるところがあります。サンチュに包む四行です。速いラップを二本続けると聴いているほうが胃もたれするので、あいだに置きました。サンチュを選んだのは、あれが焼肉のなかで唯一、手が止まる工程だからです。包む時間のぶんだけ、少しだけ遅くなる。曲の速度も同じところで落としています。

それから、この曲でいちばん本音なのが「年齢(とし)の数だけ 経験積んでも/この旨さには 勝てやしないのさ」の二行です。年を重ねると、食べたものの数は増えます。増えるほど比べられるようになって、いろいろわかったつもりになる。それでも、これには勝てない、というものがいくつか残ります。勝てないものが残っているうちは、まだ現役です。

聴きどころは、最後のサビです。 ここだけ半音上がって、歌詞も変わります。

何歳(いくつ)になっても 煙の中へ
家族も仲間も みんな連れて

それまでは、自分の好みの話をしている曲でした。ハラミが好きだ、カルビが好きだ、というだけの歌です。最後のここで、はじめて人を連れていきます。焼肉は、一人では行きにくい料理です。網を囲むには頭数が要る。好きなものの話が、誰と行くかの話に変わるのが、この曲の着地点になりました。

そして最後の三行が、三回繰り返されて終わります。一回で切ることもできましたが、そうしませんでした。焼肉屋を出たあとのことを考えてもらえるとわかると思います。会計をして、店を出て、少し歩いて、それでもまだ肉の話をしている。あの、なかなか終わらない感じを音でやりたかった。

最後に、絵の話をひとつ。歌詞には、はっきり「乾杯のビール」と書いてあります。それでもジャケットには、酒を一滴も置いていません。中火が十九歳、弱火が十三歳だからです。同じ卓に並べるわけにはいきません。歌のなかの親父は飲んでいますが、絵のなかの三兄弟は飲まない。歌と絵で言うことが違ってもいいと判断しました。卓の上にあるのは、肉と、ご飯と、キャベツと、タレの皿だけです。

9曲を並べて、はじめて見えたこと

1曲ずつ作っているあいだは気づかなかったのに、9枚並べてから気づいたことがいくつかあります。狙って揃えたものではないので、たぶん癖です。

温度の話しかしていない

最初の3曲を並べたとき、こうなっていました。

  • 新・中華狂騒曲 feat. 回鍋肉──火。厨房の熱と音
  • 夜はコロッケ──灯り。帰り道と、手のなかの温度
  • 冷やし中華レイヤー──冷。部屋と、器に残る冷たさ

熱いところから始まって、だんだん下がっています。そのあとも同じで、炒飯は鍋の熱、秋刀魚は網の煙、餃子は蓋を開けたときの湯気、カツオはわらの炎、寿司は火を使わない冷たさ、焼肉はまた煙です。

9曲とも、味の話をほとんどしていません。何を食べたかより、それが何度だったかの話ばかりしています。 人が覚えているのは、たぶんそちらなのだと思います。

最後に、器だけが残る

終わり方も似ています。

  • 1曲目「煙は消えていく/中華鍋の、熱だけを残して」
  • 3曲目「ガラスの器に、冷たさだけを残して」
  • 8曲目「カウンターの底に、サビの緑だけを残して」

器がひとつ残って、そこに温度か、色だけが残っている。人はもういません。1曲目を書いたときには、3曲目も8曲目もまだどこにもありませんでした。それが別の季節に、別の温度で、同じ形になりました。

食べ物の歌を書くと、私はどうやら、最後に人をいなくして器だけを残したくなるらしい。実際、食べ終わったあとの台所には、それしか残っていません。片づけていない鍋と、そこに残った温度。歌が終わるのは、いつもそこです。

「僕は一人」と、三回書いている

同じ一行を、三曲で使っていました。

  • 1曲目「僕は一人、まな板の前で」
  • 3曲目「僕は一人、ガラスの器を洗う」
  • 8曲目「僕は一人、カウンターの隅」

言葉は同じですが、質はずいぶん違います。1曲目の孤独は、うるさいほうです。蛍光灯はノイズを出し、換気扇は回り、油は爆ぜていて、とにかく音がある。うるさいのに一人なのです。音のある場所で一人でいることのほうが、静かな部屋で一人でいることより、たぶんこたえます。

3曲目は反対に、止まっています。扇風機が首を振るだけの部屋で、手を動かすほど意識が沈んでいく。そして8曲目は、一人なのに人がいます。カウンターの向こうに一人いて、その人はずっと手を動かしている。しゃべってもいいし、黙っていてもいい。

一人でいることを、寂しさとして書いた曲は一曲もありませんでした。これは狙ったのではなく、書き終えてから気づいたことです。 どうやら私は、一人で食べる時間をそれほど悪いものだと思っていないらしい。

締めていない

もうひとつ、9曲とも結論を置いていません。

秋刀魚は「もう一杯、ビールください」で終わります。カツオは「ねえ、まだ帰りたくないな…」です。餃子は「おかわりはまだまだ止まらない」で、炒飯は「ごちそうさまのその先へ」。どれも、まだ食べている途中で切ってあります。

きれいに締めると、その曲が「◯◯について考えた歌」になってしまいます。そうではなく、食べながら喋っていたら、そのまま次を頼んでいた、という温度で残したかった。

決着もつけていません。パラパラかしっとりかは決めませんでしたし、ポン酢か塩かも決めませんでした。餃子の食べ方にも口を出していません。これは逃げているのではなく、そこを決めた瞬間に、聴いた人の台所が閉じてしまうからです。

これから

9曲になりました。TSUYOBIも、三人そろいました。

ただ、揃ったから完成した、とは思っていません。三人が同じ卓についた絵が1枚できただけで、ここからは揃ったあとの話になります。焼き場を誰が継ぐのかは、まだ決めていません。まだ火にかけていないものも残っています。

次に何を歌うかも決めていませんが、材料が尽きる心配だけはしていません。食べ物は、この国だけでも無限にあります。しかもそのほとんどが、まだ誰にも歌われていません。回鍋肉の歌も、冷やし中華の歌も、秋刀魚の漢字の歌も、探した限りでは他に見当たりませんでした。空いている棚は、まだいくらでもあります。

歌で伝えたいのは、食の大切さと、食の楽しさです

当社は、食に関わる仕事をしてきた会社です。飲食店さまのウェブ集客のお手伝いが本業で、そこでずっと見てきたのは、一皿の向こうに必ず人の手があるということでした。

食事は、人生のなかにずっとあります。今日も明日も、生きているかぎり続きます。それなのに、食について何かを学ぶ機会は、そう多くありません。学校を出てしまえば、なおさらです。

ですので、歌にしました。歌は、覚えます。理屈で覚えるのではなく、口が勝手に覚える。秋刀魚がなぜあの三文字なのかも、コロッケがどれだけ手間のかかる料理なのかも、歌にしておけば残ります。何年か経って、店の品書きでその字を見たときに、ふっと出てくればそれで十分です。

ウェルビーイングや食育という言葉で語られる分野に、当社は歌で入っていきたいと思っています。教材を作るつもりはありません。聴いているうちに、なんとなく知識が残っている。それくらいがちょうどいいと思っています。

全国の飲食店さまで、流していただけたら

もうひとつ、願いがあります。この9曲を、全国の飲食店さまの店内で流していただきたいということです。

店で流れているのが食べ物の歌だというだけで、卓の上の会話は、少し食べ物のほうに寄ると思っています。いま焼けているものの話をする。次に何を頼むかで少し揉める。外食の楽しさは、味だけで決まっているわけではありません。

私は、外食は楽しいものだということを伝えたいと思っています。そのために作れるもののなかで、歌はいちばん軽くて、いちばん遠くまで運べる道具でした。9曲のうち8曲は、店で食べる場面か、店で買って帰る場面の歌です。狙ったわけではありませんが、そういう曲ばかりになりました。

店内でお使いになりたい飲食店さまがいらっしゃいましたら、お問い合わせください。使っていただける形をご案内します。

冒頭に書いた話に戻ります。

私が学生のころ、自分の曲を人に届ける方法はありませんでした。300曲がMDに入ったまま30年経ったのは、才能の問題ではなく、単に棚が無かったからです。いまは、棚があります。誰にでも開いています。作って、並べれば、177の国と地域の画面に出ます。

並べたあとに聴かれるかどうかは、まったく別の勝負です。そこはこれからで、たぶんそちらのほうがずっと長い。それでも、30年前に「無理だ」と思って諦めたことが、いまは無理ではなくなっていた。 私が今回いちばん驚いたのは、そこです。

同じように、机の引き出しや、押し入れの箱の中に、誰にも聴かれていないものを持っている方がいると思います。曲でも、絵でも、文章でも同じです。棚は、もう空いています。 そこへ並べるための方法も、手段も、いまがいちばん多い。誰もが昔よりずっと簡単に、夢を形にできるサービスで世の中は溢れかえっています。あとは、出すかどうかの決断と、継続し続けるという覚悟だけです。

私はこれからも、食べ物のことだけを歌います。

強火 -TSUYOBI- 9曲一覧

9曲は、こちらで聴けます

作詞・作曲は長屋大輔、私です。制作にはAIを使っており、そのことは配信元にも開示しています。レーベルは株式会社デリシャスノーツです。

㈱デリシャスノーツでは、飲食店さまのウェブ集客支援のほかに、こうした音楽・映像・キャラクターの制作も自社で手がけています。「うちの商品やお店でも、こういう見せ方ができないか」というご相談は、お問い合わせフォームよりお寄せください。

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