『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』がすごい理由。澤野弘之の音楽と海の表現を語り尽くす【ネタバレ】

観てきました。というより、観てしまいました。
先日、当ブログで宇宙世紀年表とAIの進化についての長い記事を書きました。その冒頭で、私はこう書いています。
劇中の音楽を手がける作曲家や、作品を作り上げる演出陣についても、以前から気になっています。ただ、その感想はこの記事には書きません。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』を観てから、改めて別の記事にまとめるつもりです。
その約束の記事が、これです。
昨夜、Amazonプライム・ビデオで『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』を観ました。観終わって、そのままエンドロールが終わるまで座っていました。そして気づいたら、そのまま『機動戦士ガンダムUC』を第1話から観始めていました。深夜2時です。翌朝の仕事があるのを分かっていながら、止まりませんでした。
先に結論を申し上げます。
これは、日本のアニメーションの最高峰の一本だと、私は思います。
「ガンダムの新作として良かった」ではありません。「アニメとして完成度が高い」でもありません。日本という国が積み上げてきた映像表現、音響表現、音楽表現が、一本の作品の上でこれ以上ないほど噛み合った。そういう種類の一本です。
この記事では、私がなぜそう思うのかを、最後まで語り尽くします。
- 宇宙世紀の始まりに、私が図らずも立ち会ってしまった話
- 海の表現。ほぼ実写と、アニメの、ギリギリの融合
- 澤野弘之さんの音楽が、なぜたまらないのか
- エンディングにガンズ・アンド・ローゼズを置いた度胸
- そして、なぜ私はこの作品がこんなに好きなのか
私は学生の頃から曲を作ってきた人間でもあります。今も自分で作曲をしています。ですから、音楽の話は「観客として感動した」だけでは終わらせません。作る側の視点から、なぜあの音があの場所で鳴ると人の心が動くのかまで、踏み込んで書きます。
長くなります。褒めちぎります。お付き合いください。
⚠️ 最初に。この記事は全編ネタバレです
前回の記事では、章ごとに「ここから結末に触れます」という注意書きを置きました。
今回は、それをやりません。
この記事は、全編ネタバレです。
理由は単純で、この作品の素晴らしさは「何が起きたか」と切り離して語れないからです。あの海がどう映ったか。あの音楽がどこで鳴り、どこで止まったか。あのエンディング曲が、どのタイミングで流れ始めたか。全部、物語の中身とセットです。ぼかして書いたら、私が伝えたいことの九割が消えます。
ですので、はっきり書きます。
- 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(2021年・第1章)の展開と結末
- 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』(2026年・第2章)の展開と結末
- 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の結末
- 『機動戦士ガンダムUC』の冒頭
これらに、遠慮なく触れます。
まだご覧になっていない方は、ここで一度ブラウザを閉じてください。
『キルケーの魔女』は、2026年1月30日に劇場公開された作品です。そして現在は、Amazonプライム・ビデオで国内独占配信されています。 レンタル・購入配信が2026年8月17日から、見放題配信が2026年8月31日から始まっています。つまり、プライム会員の方なら、今この瞬間、追加料金なしで観られます。
観てから、戻ってきてください。この記事は逃げません。
観た方だけ、この先へどうぞ。
宇宙世紀の始まりに、私は立ち会ってしまった
まず、この記事を書かずにいられなくなった直接のきっかけから話させてください。作品の中身ではなく、私の身に起きた出来事です。
先日、私は前回の記事で宇宙世紀年表の冒頭をこう引用しました。
2045年 第一号コロニーの建設がはじまる。
U.C.0001 人類総人口が90億人を突破。宇宙移民開始をもって宇宙世紀に移行。
この4行を、私は「未来予測の書」として読み解きました。人類が地球を出て、暦そのものを切り替えた瞬間。年表の中では、たった2行の記述です。
そして昨夜。『キルケーの魔女』を観終わった勢いのまま、私は『機動戦士ガンダムUC』のTV放送版を第1話から再生しました。理由は単純で、ハサウェイの音楽を聴いていたら、UCの音楽が聴きたくなったからです。同じ作曲家、澤野弘之さんの仕事です。
第1話が始まりました。冒頭。式典です。
そして、スピーカーからこんな言葉が流れてきたのです。
私たちは母なる地球の外に自らの世界を築く時代に足を踏み入れました。今宵私たちは歴史の目撃者となります。この幸運を全ての人と分かち合い、西暦の時代を感謝と敬意をもって見送ろうではありませんか。そして新たなる世界、宇宙世紀の始まりを笑顔で迎えましょう。さよなら西暦、ようこそ宇宙世紀
私は地球連邦政府首相 リカルド・マーセナスです。まもなく西暦が終わります。
椅子から少し身体が起きました。
私が先日、年表の上で「U.C.0001 宇宙世紀に移行」と一行で書いたあの瞬間が、目の前で映像になって流れている。
しかも、記念式典として。演説として。人々の笑顔として。年表では「移行」の二文字で片付けられている出来事に、演台があり、スピーチ原稿があり、拍手をする人々がいる。
正直に言います。鳥肌が立ちました。
年表というのは、出来事から感情を抜き取った表です。だから読みやすいし、俯瞰できる。私は前回の記事で、まさにその俯瞰を武器にして原稿を書きました。でも、俯瞰は同時に、そこにいた人の顔を消してしまいます。
UCの第1話は、その消された顔を返してくれました。「さよなら西暦、ようこそ宇宙世紀」と笑顔で言った人が、確かにいたのだと。
宇宙世紀100年が、一本の線でつながる
ここからが本題です。
私はこの体験をした直後に、頭の中で線が一本つながりました。図にするとこうです。
| 年 | 出来事 | 作品 |
|---|---|---|
| U.C.0001 | 宇宙世紀への改暦式典。ラプラスでの演説 | 『機動戦士ガンダムUC』第1話 冒頭 |
| U.C.0079〜0093 | 一年戦争から第二次ネオ・ジオン抗争まで | 初代〜『逆襲のシャア』 |
| U.C.0096 | 「ラプラスの箱」をめぐる物語。バナージとオードリー | 『機動戦士ガンダムUC』 |
| U.C.0105 | マフティー・ナビーユ・エリンの闘争 | 『閃光のハサウェイ』『キルケーの魔女』 |
ラプラスで始まり、ラプラスの箱で問い直され、そしてハサウェイに至る。
UCの第1話には、こんな言葉も出てきます。
あれから時に100年が経つ。このままでは地球圏が失速する。宇宙世紀との揺らぎを正してくれる者たち…ラプラスの箱を託すに足りる者がそこにあることを願う
100年。改暦式典から、UCの物語まで、ちょうど100年です。そしてそこからさらに9年後が、ハサウェイの時代です。
つまり宇宙世紀とは、「さよなら西暦」と笑顔で言った日から、地球に住むこと自体が違法になる日までの、たった100年ちょっとの記録なのです。
前回の記事で私は、年表を「警告の書」と呼びました。今回、その警告の始点と終点を、映像で見てしまったことになります。始点は笑顔のスピーチ。終点は、地球に残った人間を狩り出す社会と、それを止めようとして処刑される男。
この落差を、私は一晩で体験しました。
音が、100年をつないでいる
そして、ここが今日いちばん言いたいことに直結します。
U.C.0096のUCも、U.C.0105のハサウェイも、音楽は澤野弘之さんなのです。
これは、ものすごいことです。
作品としてのUCとハサウェイは、制作の時期も、監督も、絵のタッチも違います。それでも、音が同じ人の手から出ている。だから観客の側では、勝手に地続きになるのです。
UCで聴いた音の記憶が身体の中に残っていて、9年後のハサウェイで似た質感の音が鳴ると、身体が先に「ああ、あの世界の続きだ」と反応してしまう。理屈より先に、身体が反応する。
設定資料が世界をつなぐのではありません。音が世界をつなぐのです。
私はこれを、作曲する人間として痛感しました。ある会社の音、ある土地の音、ある物語の音というのは、確かに存在します。そして一度それが刷り込まれると、人はその音を聴くだけで、その世界に戻ってしまう。
宇宙世紀100年を一本の線として体感させているのは、年表ではなく、澤野弘之さんの音でした。
海の表現。ほぼ実写と、アニメの、ギリギリの融合
さて、ここから作品そのものの話です。
『キルケーの魔女』を観て、私が最初に「うわ」と声を出したのは、冒頭でした。
海です。
冒頭で、ハサウェイは海に潜る
作品は、ハサウェイと機体が海へダイブしていくところから始まります。村瀬修功監督は、この冒頭について、ハサウェイと機体が海の中へ、そして過去へ潜っていくオープニングなのだ、という趣旨のことをインタビューで語っています。
観る前にその言葉を知っていたわけではありません。私はただ、画面に映る水を見ていました。
水面の光の割れ方が、実写でした。
比喩ではありません。青の階調、泡の散り方、光が水中でぼやけながら差し込む角度、機体の表面を水が流れていく速さ。どれをとっても、私がこれまで実際の海の映像で見てきたものと同じ挙動をしています。
そして次の瞬間、はっとします。
実写ではないのです。
輪郭が、アニメーションのままなのです。線が生きている。塗りが生きている。手で描かれたものが持つ、あの気持ちのいい省略がちゃんと残っている。
私が長屋大輔として、この作品について一番言いたかったのは、まさにこの一点です。
美しい表現力の、ギリギリの融合。
これ以上リアルに寄せたら、ただの実写のまがい物になります。これ以上アニメに寄せたら、海はただの青い面になります。その両方を避けて、境界線のいちばん美しいところに、留まっている。
監督の言葉が、答え合わせになった
観終わってから、村瀬監督のインタビューを読みました。そこにこんな趣旨の言葉がありました。
アニメ的な表現があまりしっくりこない部分があるので、それが実写的な表現につながっている。
私はこれを読んで、腑に落ちました。
つまり、順番が逆なのです。
「実写みたいにすごい絵を作ろう」と思って作ったのではない。「ここはアニメの記号的な表現だと自分の感覚に合わない」という違和感が先にあって、その違和感を解消していった結果、実写的な質感にたどり着いている。
これは、ものづくりの姿勢として本当に強いと思います。
目標から逆算して寄せていく仕事と、違和感を一つずつ潰していった結果そこに着いた仕事とでは、出てくるものの説得力がまるで違います。前者は「上手い」で終わりますが、後者は「本物」になります。
だから、この作品の海は、リアルなのに冷たくないのです。作り手の体温が残っている。
海上戦。あの重さは、アニメでしか出せない
物語の舞台は、インドネシア方面の海域です。宇宙世紀の年表には、U.C.0105年4月21日にハルマヘラ島沖でクスィーガンダムとペーネロペーが交戦した、という記述があります。地名が具体的に残っているのが、この物語らしいところです。
そして本作の終盤、Ξガンダムとアリュゼウスの戦いが待っています。
ここで私が唸ったのは、海の上で戦うということの意味を、この作品がきちんと画で見せていることでした。
巨大な機体が海面すれすれを飛ぶと、海がどうなるか。飛沫がどう上がり、波がどう割れ、どれくらいの時間をかけて水面が戻るのか。爆発の熱が水面に当たったら何が起きるのか。機体が水を蹴ったとき、その質量はどこへ逃げるのか。
全部、描いてあるのです。
そしてこれは、実写では絶対に撮れない絵です。実物の巨大人型機械は存在しないのだから当たり前ですが、それだけではありません。仮にCGで実写映画として作っても、たぶんこうはならない。実写の文法で作ると、画面は「すごさ」の説明になってしまいます。
アニメーションは、そこで嘘をつけます。水の一滴を、物理的に正しい位置ではなく、いちばん美しい位置に置ける。だからこの海は、正確でありながら、同時に絵として整っている。
実写よりも情報量が多く、実写よりも整理されている。 これが日本のアニメーションが到達した場所なのだと、私は思いました。
そして、音を「付けない」という選択
もう一つ、海の表現を語るうえで絶対に外せないのが、音です。
本作の音響演出は笠松広司さんが手がけています。監督が語っているところによると、絶対に必要な部分にのみ音を付加する、SEを潔く付けないという選択をしているそうです。
観ているときは、そんなことは意識しません。ただ「静かだな」と感じるだけです。
でも、これが効いています。
普通、こういう大作では、画面が動くたびに音が乗ります。金属が軋み、風が鳴り、エンジンが唸る。情報を盛ることで迫力を作る。安全なやり方です。
この作品は、逆をやっています。音を引いている。
その結果、何が起きるか。
海の音が、聞こえるのです。
余計な効果音を全部どけたあとに残るのは、水の音です。波の音です。そして、その静けさの中で、機体の音が一つだけ鳴ると、その一音がとんでもない重さを持ちます。
引き算で作った音響は、足し算で作った音響より、はるかに怖い。
私はこの作品の音を聴きながら、自分の仕事のことを考えました。資料でも、原稿でも、我々はつい情報を足したくなります。足せば足すほど、伝わらなくなるのに。
何を鳴らすかではなく、何を鳴らさないか。 一流の仕事は、いつもそこで決まります。
澤野弘之さんの音楽が、とにかくたまらない
さあ、この記事の中心です。
私は澤野弘之さんの音楽が大好きです。
好きという言葉では足りません。たまらないのです。
念のため用語をひとつ。劇伴(げきばん)というのは、映画やドラマ、アニメの中で場面に合わせて流れる音楽のことです。主題歌のように独立して聴かれる曲とは別に、物語を支えるために書かれる音楽群を指します。
『閃光のハサウェイ』は2021年の第1章から澤野さんが音楽を担当していて、本作『キルケーの魔女』でも続投されています。そして冒頭でも書いたとおり、『機動戦士ガンダムUC』の音楽も澤野さんです。
私は学生の頃から曲を作ってきた人間です。今でも作っています。だからこの章は、ファンとしての感想では終わらせません。なぜあの音が人の心を動かすのかを、作る側から分解します。
① 音楽を「止める」勇気がある
まず、いちばんに挙げたいのがこれです。
盛り上げる話をする前に、止める話をさせてください。
村瀬監督は、本作の音響について、音楽をカットする判断が効いているという趣旨のことを語っています。つまり、音楽を鳴らさない場所を、意図して作っている。
これは、作曲する側からすると、相当に勇気の要ることです。
自分が書いた曲を、監督が「ここは要らない」と外す。作った人間としては、当然つらい。しかし外した瞬間に、その前後で鳴っていた音の価値が跳ね上がる。
音楽の力というのは、鳴っている音の大きさではなく、鳴っていない時間との落差で決まります。
ずっと大きい音が鳴っていたら、人は麻痺します。心拍は上がりません。逆に、無音が数十秒続いたあとに、たった一音のピアノが落ちてくると、観客の身体は跳ねます。
本作は、この落差の設計が異常に上手い。
静かな海。音のない機動。そして、来る。
来た瞬間の破壊力は、その前に何秒黙っていたかで決まっているのです。
② 澤野サウンドが、宇宙世紀100年を身体に呼び戻す
二つ目です。これは先ほどの章の続きになります。
澤野弘之さんの音楽には、一度聴いたら忘れられない質感があります。
私なりに言語化するなら、こうです。
- 弦とコーラスが、人の声のように歌う
- 打ち込みのビートが、機械の心拍のように走る
- その二つが、同じ小節の中で真正面からぶつかる
生身の人間の声と、機械のリズム。
もうお分かりだと思いますが、これは宇宙世紀という物語の主題そのものです。人が生身のまま、機械に乗って戦う世界。その世界の音として、これ以上ふさわしい設計はありません。
そして、この質感をUCで浴びた人間が、9年後のハサウェイの世界で同じ質感を浴びると、何が起きるか。
設定を思い出すのではなく、感情を思い出すのです。
私はUCを観ていた頃の自分の心拍を、身体が覚えていました。ハサウェイの音が鳴った瞬間に、それが戻ってきた。
これは作曲をやっている人間なら分かると思うのですが、音楽の記憶というのは、映像の記憶より深いところに刺さります。歌詞を忘れた曲でも、イントロが鳴れば当時の空気を思い出す。あれと同じことが、劇伴でも起きるのです。
宇宙世紀という100年の物語に、澤野弘之さんという一人の作曲家がいる。この事実がどれだけ幸福なことか、私はこの数日で骨身に沁みました。
澤野サウンドは、私の好きな作品を全部つないでいた
ここで、少し脱線させてください。
澤野弘之さんの名前を意識して追いかけるようになってから、自分が好きだった作品の音楽が、ことごとく同じ人の手によるものだったと気づいて、愕然としたことがあります。
『機動戦士ガンダムUC』。『機動戦士ガンダムNT』。『進撃の巨人』。『キングダム』。『甲鉄城のカバネリ』。『七つの大罪』。そして『俺だけレベルアップな件』。
どれも私が夢中になって観てきた作品です。ジャンルも舞台も時代もまるで違うのに、観ているときの心拍の上がり方が、どこか似ていた。その理由が、音だったのです。
好きな作品を並べたら、作曲家が一人だった。 こんな体験は、なかなかありません。
だから私にとって『キルケーの魔女』の音楽は、宇宙世紀100年をつなぐだけではなく、自分がこれまで観てきた日本のアニメーションの記憶そのものをつなぐ音でもありました。この記事を「日本のアニメの凄さを知ってほしい」という気持ちで書いているのは、そういう理由もあります。
③ 劇伴が、場面を「説明」せず「押し上げる」
三つ目。これが技術的にはいちばん大事な話です。
劇伴には、大きく分けて二つの役割があります。
| 説明する音楽 | 押し上げる音楽 |
|---|---|
| 悲しい場面で、悲しい旋律を鳴らす | 悲しい場面で、動きのある音を鳴らす |
| 観客に「これは悲しい場面ですよ」と教える | 観客の感情を、場面より先へ連れていく |
| 分かりやすいが、画面より前に出ない | 画面と衝突して、新しい感情が生まれる |
| 観たあと、音楽を思い出さない | 観たあと、音楽だけが鳴り続ける |
澤野さんの音楽は、徹底して右側です。
悲しい場面で、素直に悲しい音を鳴らしません。戦闘の場面で、単に激しい音を鳴らしません。画面が一だとしたら、音楽が二を持ってくる。 その一と二の差分のところに、観客の感情が生まれる。
これは、作る側からすると相当に難しいことです。なぜなら、外すと事故になるからです。画面と音楽がケンカして、観客が置き去りになる。
それを外さずにやり切るには、物語を隅から隅まで理解していないと無理です。この場面で観客の感情が今どこにあり、次にどこへ動くべきかを、正確に把握していないと、押し上げる方向を間違えます。
澤野さんの音楽が「たまらない」のは、音が良いからではありません。物語の理解が深いからです。
そして本作は、その音楽を鳴らす場所と、鳴らさない場所を、監督と音響が丁寧に選び抜いている。
作曲家と、監督と、音響。三者がここまで噛み合った作品を、私は久しぶりに観ました。
エンディングに、ガンズ・アンド・ローゼズを置いた度胸
そして、エンディングです。
正直に書きます。あのイントロが鳴った瞬間、私は声が出ました。
ガンズ・アンド・ローゼズの「Sweet Child O’ Mine」です。
1987年の曲です。ロック史に残る名曲で、あのギターのイントロは、聴けば誰でも「あ、これ知ってる」となる種類のものです。世界中で聴かれ続け、公式のミュージックビデオは21億回以上再生されています。
それを、宇宙世紀の物語の最後に置く。
正気じゃない、と思いました。褒めています。
なぜ、この選曲がすごいのか
考えてみてください。
宇宙世紀U.C.0105。地球に住むことが特権になった世界。テロリストと呼ばれた男が、自分の父の影と、自分が撃ってしまった人の記憶と、たった一度出会った少女の顔を抱えたまま、物語が閉じていく。
その直後に、1987年のアメリカのロックが鳴るのです。
普通なら、合いません。時代も国も文脈も全部違う。ここまで澤野弘之さんの音で徹底的に作り込んできた世界に、まったく別の場所から曲を持ってくるわけですから、下手をすれば全部が台無しになります。
それが、合ってしまう。
公式が発表している選曲の理由には、こう書かれています。この曲の「彼女の存在がもたらす複雑な感情を描いた優しさと切なさが入り混じるリリック」が、「ハサウェイがギギと出会ったことで抱く感情とも重なり、作品の物語にマッチしたエンディング」になっている、と。
読んで、膝を打ちました。
そうなのです。この曲は、もともと一人の女性への、優しさと切なさが混ざった歌です。ハサウェイにとってのギギ・アンダルシアも、恋というひと言では片付かない、名前のつけられない感情の相手でした。
私的な感情の歌が、政治と戦争の物語を、最後にもう一度「一人の人間の話」に引き戻す。
これが、この選曲の恐ろしさです。
エンドロールが始まった瞬間、観客の視点は、マフティーという組織の話から、ハサウェイという一人の若者の話へ、強制的に戻される。100年の宇宙世紀も、法案も、地球連邦も、あの数分で全部後ろに下がって、残るのは一人の人間の顔だけになる。
しかも、この曲は最後に、行き先を問う一節を何度も繰り返します。
この問いが、そのまま観客の心情になるのです。第2章を観終わって、第3章がまだ来ていない私たちの心境そのものです。
作品の中の問いと、観客の問いが、エンドロールで一本になる。
こんな終わり方をされたら、拍手するしかありません。
三層構造で、音楽が物語を挟んでいる
そして、この作品の音楽の配置を整理すると、見事な三層構造になっていることが分かります。
| 位置 | 楽曲 | アーティスト | 何をしているか |
|---|---|---|---|
| オープニング | 「Snooze」 | SZA | 現代の空気で、観客を作品世界へ引き込む |
| 本編全編 | 劇伴 | 澤野弘之さん | 宇宙世紀の100年を、音で背負う |
| 挿入歌 | 「ENDROLL」 | 川上洋平[Alexandros]さん × SennaRinさん | 物語のただ中で、感情を一段押し上げる |
| エンディング | 「Sweet Child O’ Mine」 | Guns N’ Roses | 物語を、一人の人間の話へ引き戻す |
見てください。
現代のR&Bで始まり、日本のロックとボーカリストが中を支え、1980年代のアメリカンロックで終わる。そして全編を、日本人作曲家の劇伴が貫いている。
時代も国もジャンルもバラバラです。それなのに、一本の映画として成立している。
これができるのは、真ん中に澤野弘之さんの劇伴という太い背骨があるからです。背骨がしっかりしているから、両端で大胆なことができる。
音楽の作り手として、この構成には唸りました。
私の世代にとってのガンズ
最後に、個人的な話をさせてください。
私はガンズ・アンド・ローゼズを、リアルタイムで聴いていた世代です。
当時のあの曲は、宇宙世紀とは何の関係もありませんでした。ラジオから流れて、友達と話題にして、真似してギターを弾こうとして挫折する。そういう距離にある曲でした。
その曲が、40年近く経って、私が学生時代から追いかけてきた宇宙世紀の物語のエンドロールで鳴る。
自分の人生の別々の場所に置いてあった二つのものが、一本の映画の最後で握手をしたような気分でした。
こういう体験は、長く生きていないとできません。年を取るのも悪くないな、と本気で思いました。
なぜ私は、この作品がこんなに好きなのか
ここまで、海と音の話をしてきました。最後に、物語の話をさせてください。
名もなき人が、ちゃんと映っている
この作品を観ていて、私が何度も「いい」と思ったのは、主人公と関係のない人が画面に映ることでした。
原作は小説です。小説は一人称で書けるので、ハサウェイの内面をそのまま文章にできます。しかし映像は、そうはいきません。監督は、その一人称を映像化するにあたって、ハサウェイと関わりのない人物も画面に出すという方向を選んだそうです。
これが、効いています。
マフティーの母艦での日常が映ります。飯を食い、整備をし、冗談を言う人たちがいる。テロ組織ではなく、生活のある集団として映る。そこにハーラ・モーリーのように、名前と顔を持ったパイロットがいて、その一人ひとりの選択が物語の重さを一段引き上げます。
戦争を、英雄の視点だけで描かない。名もなき人の視点を通す。
これは、私が仕事で大事にしていることとまったく同じです。飲食店の集客の仕事をしていると、つい「店」という単位で物事を見てしまいます。でも、店を動かしているのは、厨房に立つ一人と、ホールを走る一人です。
組織を描くときは、必ず一人の顔から描く。 この作品は、それを徹底しています。
ハサウェイは、過去の自分と向き合っている
そして、本作の主題です。
村瀬監督は、テーマを「ハサウェイが過去の自分と向き合う」ことだと語っています。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を観た方なら、この一行の重さが分かるはずです。あの物語で、少年ハサウェイは取り返しのつかないことをしました。撃ってはいけない人を、撃ってしまった。チェーン・アギの件です。
そして本作の映画版ハサウェイには、その罪悪感が明確に乗っています。
さらに、終盤。
彼は、アムロとνガンダムの幻を見ます。
私はこの場面で、息が止まりました。
父の同僚であり、少年の彼が憧れ、そして自分の過ちの現場に立っていた男。その幻が、12年の時を越えて、海の上に立つ。しかも、量産型νガンダムという「量産された理想」が敵として出てくる時代に、です。
かつて一機しかなかった特別なものが、量産されている。かつて憧れた背中が、幻としてしか現れない。
過去は、美しいまま帰ってこない。 この作品が描いているのは、そういう現実です。
だから私は、この物語が好きなのです。
派手なロボットの映画ではありません。取り返しのつかないことをした人間が、それでもまだ生きていて、何かを止めようとする話です。
実写では撮れないものを、実写よりも切実に
まとめます。
私がこの作品を「日本のアニメーションの最高峰」と呼ぶ理由は、三つです。
- 実写では絶対に撮れない絵を、実写よりも情報量の多い形で見せた
- 音を引き算して、静けさを武器にした
- その全部を、一人の男の後悔という、極めて個人的な話に着地させた
一つ目と二つ目は技術です。三つ目は思想です。
技術だけなら、世界中にすごい作品があります。しかしこの作品は、その技術を全部使って、最後に一人の人間の顔を見せに来ます。
経営者として、こういう仕事を見ると背筋が伸びます。
我々の会社の仕事も、突き詰めれば同じです。どれだけ道具が進化しても、最後にお客様の心を動かすのは、作った人間の思想です。技術は思想を運ぶ乗り物であって、目的地ではありません。
本物を作る人たちの仕事を浴びると、自分の仕事の詰めの甘さが見えます。今日はもう少し丁寧にやろう、と思わされる。私にとって良い作品とは、そういうものです。
おわりに。宇宙世紀は、まだ終わっていない
ここまで長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
いま私は、『機動戦士ガンダムUC』を第4話まで観たところです。バナージがいて、オードリーがいて、マリーダがいて、フル・フロンタルという「シャアの再来」がいる。そして、ラプラスの箱という秘密が動き出しています。
先日、私は年表の上で宇宙世紀を「読んで」いました。
昨日、私は『キルケーの魔女』で、その年表の終わりのほうを「観て」しまいました。
そして今、私は年表のいちばん最初、「さよなら西暦、ようこそ宇宙世紀」と誰かが笑顔で言った日から、もう一度歩き直しています。
順番はめちゃくちゃです。それでも、線は一本につながりました。つないでくれたのは、間違いなく澤野弘之さんの音です。
第3章が、待ち遠しくてたまりません。
ハサウェイの物語の結末を、私は年表の記述として知っています。彼が捕まり、法案が通り、処刑される。年表には、そう書いてあります。
知っていて、なお観たいのです。
なぜなら年表は、彼が何を見て、何を聴いて、何を思ったかを、一行も書いていないからです。それを描くのが、この作品だからです。
宇宙世紀は、まだ終わっていません。
もしまだ『閃光のハサウェイ キルケーの魔女』をご覧になっていない方がいらっしゃったら、ぜひ観てください。そして、できれば良いスピーカーか、良いヘッドホンで観てください。この作品は、音で半分できています。
観終わったあと、そのまま『機動戦士ガンダムUC』の第1話を再生してみるのも、おすすめです。100年が、一本につながる感覚を味わえます。
なお、この記事の前編にあたる宇宙世紀年表とAIの進化についての記事も、あわせてお読みいただけると嬉しいです。あちらは経営とAIの話、こちらは音と絵の話です。同じ一本の年表から、まったく違う二つの記事が生まれました。
そういう作品に出会えたことが、私はただ嬉しいのです。
※本記事の公開情報(公開日・配信情報・スタッフ・楽曲情報・選曲理由)は公式発表に基づいています。監督の発言は、公開されているインタビューでの発言の趣旨として紹介しました。作品の解釈と評価は、すべて私個人のものです。
※本記事で触れる作品は、創通・サンライズの著作物です。
㈱デリシャスノーツでは、社長・経営者さま向けに「AIを相棒として会社に住まわせる」ためのご相談もお受けしています。
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